本能寺の変にて織田信長を討った人物として、明智光秀を知っている方は多いでしょう。
逆臣というイメージが付きまとう光秀ですが、福知山(ふくちやま)の地では、今でも善政を行った名君として慕われています。光秀が当時築城した城が「福知山城」であり、西国攻略の最前線の拠点でした。
この福知山城には、「転用石」を使用したユニークな野面積みの石垣や、今も築城時から現存する「銅門番所(あかがねもんばんしょ)」など見どころが目白押し。
昇龍橋を渡ってお城へ向かい、京都で唯一登れる天守閣へ入ろう。そこからは、光秀と同じ目線で福地山市街を一望してみませんか。
本記事では、魅力ある福知山城の見どころを紹介します。
福知山城とは
福知山城は、京都府福知山市に位置し、福知山盆地の中央に突き出た標高約40mの丘陵の先端地に築かれた平山城です。
その地形が織りなす景観から「臥龍城」や「竜ヶ城(たつがじょう)」という別名があります。
1579年(天正7年)頃に明智光秀により、丹波国が平定されると、主君であった織田信長から「その名誉は天下に比類なし」と高い評価を受けて、丹波国の統治を任された次第です。
そこで、拠点として新たに築いたのが福知山城の始まりとなる。光秀が初代城主となり、わずか3年足らずの統治でしたが、様々な善政を行ないました。
ちなみに、もっとも長く福知山城主となったのは朽木氏で、1669年から明治維新までに約200年にわたり、13代の藩主が務めています。
明治時代の廃城令により、1871年(明治4年)に廃城となりましたが、1984年(昭和59年)に再建に向けて運動が広がり、2年後には立派な天守閣が再建されました。
2017年には「続日本100名城」に選ばれており、福知山市のシンボルとして今に至ります。
【京都北部の見どころを紹介】
福知山城のような京都北部にある見どころを、下記記事で紹介します。
天守閣で明智光秀や福知山城の歴史を学ぶ
再建された3層4階の天守閣は、戦国時代の名残を残す古い様式であり、初期天守閣の特徴をよく表しています。
天守閣の中へ入ると、明智光秀や福知山城、朽木氏にまつわる様々な資料を展示しています。
また、絵巻太閤記や銭貨研究に関する書、城崎温泉への紀行文なども展示されているので、ゆっくり見学していこう。
唯一の光秀の肖像画である「明智光秀肖像画」や「明智光秀家中軍法」は見ておきたい。
特に明智光秀家中軍法は、軍団の秩序と規律、足軽の戦闘方法、挨拶の仕方などを18条からなる軍法として記されおり、光秀の人物像を知るのに打ってつけです。
軍法の内容には、戦場では大声を出したり雑談は禁止、勝手な行動はとるな、連絡を正しく行うなどが記されている。このことから戦場での指揮統率がいかに大変だったのか想像できるだろう。
本能寺の変が起こる1年前に福知山城で制定されたそうで、光秀が作成するまでは、織田家中に軍法は存在しなかったそうな。光秀の有能さが光るエピソードですね。
また、光秀は地子銭(じしせん)という税金を免除したり、由良川の港を整備して水運の物流拠点にすることで、城下町の経済発展に力をいれました。
地子銭の免状は、代々受け継がれていき、明治の地租改正が行われるまで続いたという。それだけ光秀の治世は、評価が高かった証拠でしょうね。
それだけでなく、町中まで蛇行していた由良川がたびたび氾濫を起こしていたので、水害から領民を守るため堤防を築いたと伝わっています。
こちらの上段の間では、殿様と家臣の間で何やら話し合いを行なっている場面を表現しているではないですか。案内板によると、松平忠房候の時代を再現しているみたい。
こちらは福知山城の城郭模型。東に由良川、土師(はぜ)川、法川と自然の壕に囲まれており、西と南北に堀を巡らせて武家屋敷を配置したそうな。なるほど、自然を巧みに利用して効率的にお城を守っているのがよく分かりますね。
2018年(平成30年)11月24日・25日には、福知山市で初めての将棋のタイトル戦「竜王戦(第31期竜王戦七番勝負第4局)」が開催されました。
羽生善治竜王と広瀬章人八段が熱戦を再現した盤面が展示さています。盤面は開始前の状態でしたので、個人的には終局図を見たかったかな。
羽生竜王や広瀬八段などの色紙も展示されており、将棋ファンならば嬉しいでしょうね。
それにしても、なぜ本能寺の変が起きたのか未だに原因は不明。いつの日かその謎が解ける日が来るのを心待ちにしています。
まさかとは思いますが、甲斐国の武田勝頼らを討伐中に残党をかくまった恵林寺の処遇に対して、信長が諫言した光秀を多くの人たちが集まる前で、打ち据えた恨みが原因ではないでしょう。
いったい光秀に何があったのか、興味がつきません。
【城や城跡の紹介(その1)】
旅先で訪れた様々な城や城跡を、下記記事で紹介します。
天守閣から福知山市街を望む
天守閣の望楼からは、福知山市街が一望できます。福知山の素晴らしい町並みが広がっており、実に風情を感じるではないですか。
遠くに見える酒呑童子で知られる大江山などの山並みや、蛇行して流れる由良川の風景がいい感じ。
その中でも由良川に架かる音無瀬橋の手前に見える緑の一帯に注目しよう。
これは「明智藪」という場所です。先ほど触れた由良川の氾濫を抑えるために堤防を築いた場所で、堤防の前面に衝撃を和らげるための藪を設けたといわれています。
昇龍橋を渡り天守閣へ向かう
天守閣へ向かう道のりには、大きく弧を描いている「昇龍橋」を渡って向かいます。
そのデザインは、まるで山口県岩国市にある錦帯橋を連想させる。ただし、こちらの橋はコンクリート製であり、描いている弧は1つしかありません。
高低差は約5mほどで、龍が空に向って昇っていく様子を表しているのだろう。橋の入口前の路面には、「龍」のモザイクタイルがあることからも容易に推察できてしまうかな。
実はこの昇龍橋の石垣には、ハート型の石があるということなので、探したのですが残念ながら見つからず。うん、こんな日もあるさ。(悔しくないぞ!)
興味がある方は、恋愛成就のパワースポットなので、ぜひ探して出して下さいね。
こちらは、橋を渡り終えて天守閣へ向かう道中で撮影した1枚です。眼下には昇龍橋が見えており、その向こう側には、福知山市街が広がっています。
ますます錦帯橋を連想させるとは思いませんか。
転用石を用いた石垣は必見
福知山城の天守閣をのせる天守台を初めて見る人は、きっと驚くと思います。
まず気になるのが、西側から見る天守台には、とても目を引く斜線部分がある。このような石垣は珍しいだろう。
実は、この線は増改築された時の跡であり、正面から見て斜線右側に見える部分は、築城当時のものということ。つまり明智光秀の時代の石垣という訳ですね。
この右側部分には、たくさんの「転用石」が集中しているのは見逃せない。
転用石とは、五輪塔や宝篋印塔などの墓石を始め、石仏・石臼・灯篭といった石造物です。戦国時代では、転用石を使うのは珍しくないのですが、今を生きる私たちの目にはとても奇異に映ってしまいます。
転用石が使われているのには、様々な諸説があるそうで、その中の1つには、旧勢力の象徴である寺院から石を集めて石垣を造ることで、支配力を示しているそうな。
う~む、私は好きになれない理由かな。特に墓石なんて使って罰が当たらないのだろうか。
個人的には、築城の際に石が不足したため流用したのだろうと思います。
このような転用石が約500個も見つかっているため、石垣を少し観察しただけでも「あっ、転用石みつけた!」という状態になる。これは面白いので、どのような転用石が見つかるのか探す出してみよう。
天守台に使用されている数では、日本で一番多いそうですよ。
天守台で、転用石を見つけた後に直ぐその場を去るのは、ちょっと待って下さいね。
天守閣から少し離れた場所には、転用石の品評会ではありませんが、一堂に並べた場所があるのでお見逃しなく。
【城や城跡の紹介(その2)】
旅先で訪れた様々な城や城跡を、下記記事で紹介します。
築城時から現存する「銅門番所」
福知山城には、明治時代に発令された廃城令から難を逃れた現存する建築物があります。それが「銅門番所(あかがねもんばんしょ)」ですね。
この番所は名前の通り、かつて銅門の脇にあったもので、警備や見張りのために造られました。
ここで「銅門だけ取り壊されたの?」と思う方も多いだろう。実は、銅門は福知山市にある正眼寺へ移築されているのでご安心を。
さて、なぜ銅門番所が取り壊されなかったのか理由は不明ですが、資金不足などといった何かしらの理由があったと思います。結果的に今もなお築城時からの姿が見られるのは、ありがたい。
もともと二ノ丸の登城口(現在の市役所の東側)にありましたが、大正時代になると本丸へ移され、天守閣の再建に伴い現在の場所へ移築されました。
2度の移築を繰り返してきましたが、経緯はどうあれ、廃棄されることなく福知山城の歴史を物語る重要な施設として、今後も残り続けて欲しいですね。
「豊磐の井」は日本一の深さを誇る井戸
天守閣の東側には、「豊磐の井(とよいわのい)」という井戸があります。
「別にお城に井戸は珍しくないだろう?」と思うでしょうが、こちらの井戸は、城郭本丸内の井戸としては、日本で一番深さを誇る凄い井戸なのです。
その深さは50mもあり、今でも海抜30m地点まで水を湛えているという。ということは、使おうと思えば、いつでも現役復帰できる訳だ。
お城の隣を流れる由良川の川底より深いというのだから、大したものですね。機械のなかった時代に、硬い岩盤を掘り進めるというのは、どれだけ大変な作業だったのか、見物をしていると当時の苦労が伝わってきました。
井戸の中は金網で塞がれており、人が落ちないように安全対策済み。ただし網目から小さな物であれば通過してしまうため、中を覗き見るならば、気を付けて下さいね。
お城にある井戸としてよく聞くのは、抜け穴としての利用。「豊磐の井」もご多分に漏れず、抜け穴があり、二ノ丸にあった横穴に通じていると伝わっています。
明智光秀が話す自動販売機
本丸広場には、戦国無双シリーズに登場する明智光秀が描かれた自動販売機があります。
アニメやゲームキャラクターを描いた自販機を見かけるのは、昨今珍しくなく、これだけだと普通にお思えるのですが、実は面白い機能がある。
私がこの自販機で飲み物を買おうと硬貨を投入すると、「ときは今!明智光秀、ここに見参!」としゃべるではないですか。うん、面白い♪
自販機をよく見てみると「福知山限定 明智光秀が話す自販機」と書かれている。なるほど、なるほど。
どうやら他にも様々なセリフがあるみたいで、商品選択時には「敵は本能寺にあり!」と話してくれました。
調べてみると、お金が足りない時にボタンを押せば、「信長~~」と光秀が叫ぶという。う~む、これは聞いて見たかったかも。
こういう遊び心のある自販機は、どうやら福知山市に数台稼働しているみたい。見つけたら、ぜひ明智光秀のセリフを聞いてみてはいかがですか。
釣鐘門とシャチホコ
天守閣の中へ入る入口前の近くには、復元された「釣鐘門(つりがねもん)」があります。
実物は明治時代まで現存したそうですが、松平忠房が福知山城の城主だった時に描かれた「福知山城下絵図」などを基にして復元されました。
2階建てのコンパクトな見た目は、往時をしのばせるよい雰囲気を醸し出しています。
また、福知山城の天守閣の鯱瓦(しゃちがわら)を原寸で復元したものを発見。これは大きいですね~。高さは150cmあります。
伝統的鬼瓦の技術継承と瓦文化の普及のために作られたそうで、福知山市と旧大江町の合併の記念として「日本鬼師の会」が手がけました。
チャチホコは、天守閣の展望台からも別途のものが見て取れる。やはり、お城にはチャチホコが似合います。
ゆらのガーデン前から天守閣を眺めよう
福知山城前には、緑いっぱいの施設「ゆらのガーデン」があります。
この施設前は、福知山城を撮影するのに絶好のスポット。美しいアーチを描く昇龍橋越しのお城を撮影してみよう。
それ以外にも有名なフォトスポットとして、少し離れた場所にある「伯耆(ほうき)丸公園」が有名ですね。足を運んで素敵な1枚を撮ってみませんか。
ちなみに、「ゆらのガーデン」は7つの店舗が集まる公園型の複合施設です。ここでは、お城を眺めながら食事や休憩、買い物を楽しめます。
個人的には、園内でナンジャモンジャの木が見られたのが嬉しかったかな。島根県の松江城で見かけた以来久しぶりで、見かけた瞬間に「ヤッター!」と思いましたね。
ナンジャモンジャは、5月上旬に真っ白な花を咲かせます。その木全体を覆う花の姿は、まるで雪が降り積もったかのように綺麗なので、見応えがありますよ。
【カメラに関する話】
旅の思い出にカメラ撮影を楽しみましょう。下記記事では、カメラに関する話を紹介します。
福知山城の基本情報とアクセス
住所 | 京都府福知山市字内記5番地 |
電話番号 | 0773-23-9564 |
営業時間 | 9:00~17:00(入館は16:30まで) |
休館日 | 火曜日(祝日の場合は開館、翌日休み) 年末年始(12/28~12/31及び1/4~1/6) |
入館料 | 大人 330円(290円) 小中学生 110円(90円) ※30名以上で団体割引きあり、( )内の金額は割引き後の料金 |
【アクセス】
- JR福知山駅から徒歩約20分
- 舞鶴若狭自動車道「福知山IC」から車で約15分
福知山城の駐車場
福知山城では、無料の福知山城公園観光駐車場がご利用できます。(普通車 70台)
この駐車場の営業時間は、8:30~23:00です。
まとめ
福知山城では、福知山城の歴史や明智光秀の人柄を垣間見れます。
天下統一を目前にした織田信長を討ち取り、歴史に大きな影響を与えた張本人ですが、善政をしいて領民に恵みを与えた名君でした。
歴史にイフはありませんが、もし織田信長が生きていたら、今とは全く違う日本史となっていたのは間違いないでしょう。
光秀が築城し、初代城主となった福知山城では、転用石を使用した野面積みの石垣や銅門番所などが今も残り、見どころの多いお城です。
京都北部へ足を運んだ際には、訪ねてみてはいかがですか。歴史の転換点を起こした光秀の素顔を知ることができるでしょう。