
兵庫県朝来市(あさごし)の山間部に位置し、国内最大級の大鉱脈だった「生野銀山(いくのぎんざん)」。
今でもその痕跡を色濃く残し、多くの観光客が訪れています。観光コースは、大きく分けると金香瀬坑道の坑内見学と、多くの露天掘り跡や坑口、粘土断層などを見物できる坑道外があり、どちらも大変魅力的ですね。
坑道内を含む生野銀山全体については、こちらの記事で紹介。本記事では主に坑道外コースを紹介するので、生野銀山の魅力をより深く知るためにも、両方の記事を読んでいただければ幸いです。
四季折々の自然の中を歩きながら、圧巻の露天掘り跡や観音岩、不動の滝などを楽しんで下さいね。
本記事では、生野銀山の坑道外コースこと「金香瀬旧坑露頭群跡」を中心に紹介します。
目次
生野銀山とはどんなところ

生野銀山は、室町時代から本格的な採掘が行われ、昭和中期から後期へ移り変わる時期に閉山となった銀山です。石見銀山(島根県)と並ぶ最大の銀山として知られています。
銀だけでなく、金や銅、錫(すず)、亜鉛など豊富な鉱物が採掘されており、戦国時代には織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といったメジャーな権力者が直轄するほどでした。
明治元年に新政府の直轄となると、西洋技術の導入により掘削・排水・輸送が効率化し、採掘量が大幅にアップ。日本の財政と近代化に大きく貢献した次第です。
現在は、観光施設として総延長350kmにも及ぶ広大な坑道の一部を公開。くわしくは、下記関連記事で紹介します。
金香瀬旧坑露頭群跡のコースと所要時間

金香瀬旧坑露頭群跡は、自然の中を歩きながら生野銀山の歴史を外から楽しめます。
特に地表に現れた銀の鉱脈を地中へ掘り進めた跡が迫力満点。近くから眺めていると、かつて作業を行なっていた鉱夫の気配を感じるのではないだろうか。
そのような露天掘り跡が複数あり、中でも朝来市指定文化財に登録された「慶寿ひ」は見応えが抜群ですね。また、堀り跡の近くには「金盛坑口」や「大丸坑口」などの坑口跡がたくさんあります。
所要時間は、往復で20~30分ほど。桜や新緑、紅葉、雪景色といった季節ごとの異なる表情を見せる中を歩きながら、ちょっとしたハイキングを楽しみましょう。
巨岩が露出した独特な景観と坑口

金香瀬坑道入口を正面に見て左側にある石段を上ると、金香瀬旧坑露頭群跡へ続きます。
石段を上り終えると、直ぐ目の前に「滝不動」のお堂があり、そこから金香瀬坑道入口付近を流れる「不動の滝」を見下ろせますね。
山道を流れる川の水は、見るからに冷たくて気持ちよさそう。きちんと整備すれば、川遊びができるのではないだろうか。

しばらく歩くと、趣きを感じさせる門を発見。それが生野代官金香瀬番所門ですね。当時多くの鉱夫たちを出迎えていたことでしょう。
門をくぐり抜けて、大谷川にそりながら奥へ向けて歩きます。この先にあるのは、生野銀山の初期にて、江戸時代に大きな鉱脈が見つかった場所ですよ。




生野鉱山は、銀だけでなく金や銅、錫(すず)、亜鉛など豊富な鉱物が採掘されていました。
マグマに熱せられた高温の地下水などにより、地表から比較的浅い位置に上昇。そのことから高温から低温の幅広い温度範囲で、多くの種類の鉱物が結晶化したそうです。
ちなみに鉱種による生成温度は、金・銀は200~150℃、銅・鉛・亜鉛は350~200℃なんだとか。錫にいたっては550~300℃という。
生野銀山のように地中深部から浅部にかけて異なる温度環境で、異なる鉱物が規則正しく生成されるのは、世界的にみても珍しいですね。



約600mに渡る遊歩道には、岩盤に沿って板状に現れた銀鉱脈を直接掘り出した跡が残ります。特に「慶寿ひ」と呼ばれる江戸時代の露天掘り跡には目を見張りました。
また、岩盤に穿たれた坑口跡もたくさん見て取れます。中へ入れそうな坑口には、入口に格子状の鉄枠で塞いでいるぞ。安全を考えれば当然の処置でしょう。
ここは、かつて鉱夫たちが命がけで作業を行なった仕事場です。当然、恐怖心があったと思うのですが、それ以上に責任感や使命感が勝っていたと思います。そういう人たちには、尊敬や感謝の念を禁じ得ません。


最奥にあるのは、大丸坑の採掘跡です。東側へまだ道が続くのですが、観光できるのはここまで。

ちなみに、大丸坑の採掘跡の反対側には、安全のための長い防護柵が設けられていて、その奥には「金盛ひ」の露天掘り跡が見えます。
名前から察するに、ここからは金が大量に産出されていたのではないだろうか。「慶寿ひ」に比べると小さな採掘跡ですが、垂直にまっすぐ掘られているのが印象的です。

金盛ひがある場所の近くには、南側に向けてゆるく曲がるカーブがあるので、奥へ歩いてみよう。

しばらくすると、岩の間にぽっかりと穴が掘られた「大亀坑口」が見つかります。この大亀坑口には、面白い話が残されていました。
かつて山師・漆垣太郎兵衛が、登尾大亀山で亀穴の割目から大きな亀が背に銀石をのせてくるのを見たそうな。これを神様のお告げと信じて掘り進めたところ、少しずつ勢いを増して活発になったそうです。そして、1827年(文政10年)に幕府が直接管理する最上位の銀山になりました。
大亀坑口を見物し終えたら回れ右して、元来た道へ戻って下さいね。実際、まだこの先にも道が続くみたいですが、立入禁止になっています。
大迫力の露天掘り跡「慶寿ひ」

金香瀬坑道の入口横にある石段から約200mほど歩くと、突然岩盤に大きな岩の裂け目が見えてきます。それが「慶寿ひ」ですね。
金香瀬旧坑露頭群跡の中でも中心的な存在です。室町時代末期の1567年(永禄10年)に発見されてから幕末までの約300年間に渡り、採掘され続けてきました。
実際に目に見えるのは、慶寿ひの一部なのですが、迫力満点なのでとても見応えがあります。最も深い所では、200mも掘られていたというのだから凄くないですか。
非常に高品位の銀(自然銀)が産出されたそうで、銀山旧記によれば「銀の出ること土砂のごとき」と記載されていたそうですよ。
そもそも慶寿ひは、生野銀山最大の鉱脈である「千珠ひ」の一部なんだとか。そう考えると、生野銀山のスケールに圧倒されました。

パッと見た目には、直線的な溝のように見えますが、近くでよく観察してみよう。その幅は3~5mほどで、凸凹に富んでいて荒々しい掘り跡なことが分かります。
これを重機を使わずに人手で掘ったかと思うと、その苦労は並大抵なものではなかったのだろうな。それに、鉱脈の厚さや母岩の性質の変化などにより、一人一人の鉱夫が創意工夫しながら掘っていたことに思い当たりました。

この慶寿ひ(北側)がある場所から約50mほど奥へ歩くと、再び慶寿ひ(南側)の露天掘り跡が現れます。こちらは北側と比べて、より近くから見物できるのが良いですね。
北側との位置関係から考えると、ズレが生じていることが一目瞭然だ。なぜこうなったのか興味津々。(その答えは後ほどに)
このあたりから岩盤には、かつての坑口跡が見えてきます。慶寿ひを見ていると、改めて力を合わせた人間の凄さというのを感じられました。
粘土断層跡が見える「大丸坑口跡」

最奥にある大丸坑の採掘跡では、日本最大規模の粘土断層が見て取れます。
金香瀬鉱山一帯では、鉱脈ができた後に断層が起こり、鉱脈が上下にズレているそうです。断層が動くと、断層に沿って岩石がもまれてできた粘土を大量に挟んでいるという。なので、粘土断層と呼ばれています。

鉱脈と断層の説明板によると、左横ずれ断層で水平方向に120mもずれているとのこと。つまり、先ほど紹介した「慶寿ひ」がズレているのは、これが原因だった訳です。なるほど、勉強になりました。
粘土断層により、鉱脈がズレたり分断するのは、地質学的にみて非常に貴重な遺産ですね。
不動の滝と滝不動

金香瀬坑道の入口付近には、「不動の滝」があります。
迫力ある岩肌を滑るように流れる傾斜瀑の様子には、力強さを感じるだろう。落差は約15mほど。そのネーミングから煩悩を断ち切る修行の場を想像する人も多いだろうな。
旅を続けていると、不動滝と呼ばれる滝に出会う機会はそれなりに多い。そして不動明王を祀っていることがほとんどだ。

ご多分に漏れず、金香瀬旧露頭群跡へ向かう途中には、不動の滝を見下ろす場所に「滝不動」のお堂があります。
織田・豊臣時代から坑内の安全と鉱山繁栄を祈念するため、信仰されていました。

ちなみに、金香瀬坑道を出ると直ぐ右手側に不動の滝が見えてきます。この坑道の出口の形は何かに似ていませんか。神社に興味を持つ人であれば、「ピン!」とくる方が多いだろうな。
案内板によると、徳川時代の坑口に似せて築造したもので「三ッ留(みっどめ)」という。化粧木は神前の鳥居を表しているそうですよ。

また、この出口の上にも注目しよう。そこには「滝間歩旧坑」が見えています。生野銀山の初期にできたものなんだとか。
人がやっと入れる程度の広さしかなかった旧坑だそうで、現在は通り抜けできません。
観音岩に注目、観音様が浮き出ている!?

金香瀬坑道へ向かって歩いていると、澄んだ水を張る池を見かけます。
その池の前には「観音岩を見学されたい方は、この案内板の前から左上方を見て下さい」と書かれた案内板が立つので、その通りにしてみよう。
すると、落石防止として張られた金網に包まれた大きな岩が見えるではないですか。パッと見た感じだと、「どこに観音様がいるの?」となると思います。しかし、じっくりと岩の表面を見ていると、観音様が浮かんで見えてくる。

その証拠がこちら。どうですか、観音様の横顔に見えるでしょ。できれば金網がない状態で見たかったけど、安全を考えれば仕方がないかな。
これは自然にできたものだそうで、何とも不思議な岩ですね。
鉱夫が掘った彫刻の跡

金香瀬坑道入口の隣にある石段を上っていると、岩の表面に描かれた落書きのような南無阿弥陀仏の像?を見かけます。
実はこれ、戦国・徳川時代に鉱夫たちが仕事の合間にノミで彫ったものですね。坑内作業は落盤やガス、塵肺など常に危険と隣り合わせなので、仏様や神様に安全を祈りたい気持ちは分かります。

このようなものが、他の場所にも描かれているので探してみよう。鉱夫が彫った場所には案内板があるので、けっこう見つけやすいです。
まとめ

生野銀山の存在は、日本の財政と近代化に大きく貢献しました。役割を終えてからも観光スポットとして、多くの人たちに親しまれています。
江戸時代に採掘された露天掘り跡は、不規則にギザギザしていて、どことなく人の温かみを感じるのではないだろうか。また、多くの人たちの手で造り上げたものなので、そこには様々な人間ドラマがあったのは想像にかたくありません。
この鉱山がもたらした恩恵の先に、私たちの今の生活が成り立っているかと思うと、感謝の念が絶えないですね。



