
日本全国には数多くの城が残りますが、その中でも飛び切り珍しいのは「三原城」ではないだろうか。
実はこのお城、本丸跡と新幹線の駅が一体化しているのです。思わず「なぜ、そうなった?」と言いたくなりますね。その理由を知れば、三原城を築いた小早川隆景(こばやかわ たかかげ)の凄さも見えるでしょう。
瀬戸内海の近くに築き水軍の拠点だった場所。城壁が直接海に面していた海城の面影として、三原市のシンボル「天守台」がそびえ立つ。そんな三原城の遺構を巡りました。
本記事では、駅構内から直接歩いて行ける「三原城」を紹介します。
目次
大城郭・三原城とは

三原城は、1567年(永禄10年)に毛利元就の三男・小早川隆景が築きました。今の三原駅周辺は海だったそうで、当時は大島と小島という島が浮かんでおり、この両島をつなげてできたのが三原城です。
軍事拠点として海水を防御に使ったり、交通手段としても利用されていたとのこと。また、満潮時には海の上に浮かんで見えることから、別名で「浮城」と呼ばれています。
目を見張るのは、その大きさです。東西約900m×南北約700mの規模を持つ大城郭だったそうですよ。これは、東京ドーム約13個分に相当する広さなんだとか。広島藩の一領地(3万石)にしては、広すぎませんかね。それほど三原の地が、重要拠点だった証拠だと思います。
三原城には櫓が32基、城門が14棟もあり、一説によると天守台の大きさは日本一。なんと広島城の天守が、6つほど入るほどだったというのだから、驚くばかりです。
明治時代に発布された廃城令により、建物のほとんどは取り壊されましたが、現在は石垣とお堀、天守台の一部などが残ります。1957年12月に国の史跡に指定され、2017年4月に日本城郭協会が選定した「続日本100名城」に選ばれました。
三原駅から天守台へ直行しよう

駅チカの城といえば、同じ県内にある福山城ですが、それでも数十メートルは離れています。三原駅は、そのようなレベルではなく、本丸跡を貫いて造られているので、驚く人も多いですね。
駅正面から眺めて見るとそのような感じはしませんが、新幹線のホーム下に石垣が残る光景に出くわすと、本当に城中を通していることを実感するでしょう。
そんな三原駅の構内では、天守台へ直接歩いて行ける通路が整備されています。

新幹線を降りて、出口へ向けて駅構内を歩いていると、天主台跡の案内が見えてくるので、案内に従い歩いて行こう。
さて、ここで気になるのが「天守」ではなく「天主」という文言ではないだろうか。これらは、同じ読み方でどちらも同じものを表しています。
そもそも「天主」は、織田信長が安土城で使い始めた天下統一を象徴する特別な呼び方。それを毛利氏(小早川氏)が、そのまま受け継いでいるようですね。(本記事では一般的な「天守台」で表現します。)

しばらく歩くと、天守台へ続く入口へ辿り着きました。奥にある階段を上りましょう。
新幹線のホームから駅構内を歩いて天守台までは、徒歩で約2~3分ほど。これほど楽に行けるお城は、他にありません。

天守台の上は芝生広場で、緑豊かな憩いの場となっています。パッと見は、小さな公園のように感じる人が多いだろうな。
端へ近づくと石垣が見えてくるので、天守台の上に立っているという実感がわきました。ベンチが設置されているので、座りながら三原市街をのんびりと眺めて過ごして下さいね。

ちなみに、新幹線のホームを降りて直ぐに「三原だるま」を見かけてビックリしました。その大きさは、インパクト抜群です。
「願いが成るように」と、鳴物の鈴や小石が胴体の中へ入っている三原市の伝統的な民芸品ですよ。ダルマは縁起物。駅に降りた後で直ぐに見かけると、幸先が良い予感がします。
三原市のシンボル「天守台」

高さ13.2mの天守台は、本丸の北側に築かれていて、三原駅の北側に整備された隆景広場から良く見えます。
周囲は水堀に囲まれており、堂々とした佇まいがいい感じ。特に石垣の美しい曲線(扇の勾配)は目を見張るだろう。
三原城の主な城主は、小早川氏・福島氏・浅野氏です。天守台の西側は小早川氏の時代に築かれ、東側は福島氏の時代に築きました。なので、積み方の違いを見比べてみるのも面白いですね。
小早川氏は全国でも珍しい「アブリ積み」という特殊な工法で石積みをしているとのこと。この積み方は崩れやすいのですが、隅部から中央部に向けて緩やかに凹ませながら、下方の立ち上がり勾配を緩やかに積むことで、経年劣化による外側へ膨らんでしまう現象を抑えているようです。
実際、400年以上を経過した今でもその美しさは伝えているので、当時の技術力の高さに舌を巻きました。
本丸跡を散策して景観を楽しむ

三原城の本丸は、新幹線や山陽本線の下側にあったそうです。そして、本丸北側の端にある一段高い場所に天守台があったそうですね。
天守台の上へ一歩足を踏み出すと、木々に囲まれた小さな公園が見て取れます。場所が場所だけに、緑豊かな駅の屋上広場と言われても違和感を感じません。基本的に静かな場所ですが、時折、新幹線が走り抜けるゴーという音が響いてくるのはご愛敬でしょう。
古写真から当時の天守台は多門櫓で囲まれていて、その間に3つの二重櫓があったみたい。今や一切の建物は見当たりません。



あるのは「国指定史跡 三原城跡」と記された看板と石碑のみ。5分もかからずに隅々まで歩けます。
天拵園(てんごうえん)の石碑を見つけ、天守台の上はそういう名前なのかと思いました。調べてみると、明治時代に三原城の敷地は民間に払い下げられたそうで、料亭があったそうですね。その料亭にあった庭園の名残だそうですよ。

新幹線のホームは、駅構内の安全を守るために壁で覆われていて、そもそも外から眺められる機会なんて少ないでしょう。
この天守台の上からでは、窓の奥に見えるホームの状況を確認できる珍しい場所になっています。



天守台は周囲のマンションと比べて高さは若干低いのですが、周囲の眺望はそれなりに見応えを感じました。
水堀へ目を向けると、錦鯉が悠々と泳いでいるのを発見。ここに放流されている錦鯉は、世界的に有名な阪井養魚場で育てられたブランドなんだとか。海に面していた当時は、鯛が泳いでいるのを目撃されたそうです。
これらの鯉の中には、頭にハート模様の鯉が若干いるそうなので、見つけると幸せが訪れるかも。なので、「恋(鯉)を叶える魚」を探してみるのも面白そうですね。
本丸跡に鉄道を通した理由とは

1894年に山陽鉄道(現在の山陽本線)は、本丸を貫く形で開業されました。当時は、三原城を残すための保存活動も行わていたそうですね。
どうして城を壊さず出来なかったのか、疑問に感じる人も多いだろう。城を迂回する方法を検討したそうですが、やむ得ない事情があり、今の形になりました。
三原駅が建つ立地を考えると、その答えが見えてきます。北側に急峻な山がそびえ立ち、南側は埋め立てられる前は海でした。つまり、東西に鉄道を通すためには、もはや城を壊す以外に方法がありません。
三原市が率先して城跡の土地を提供し、工事で撤去された石は糸崎港建設の石材として転用されたそうです。また、海と接していた水堀も埋め立てられ今に至ります。

これらの経緯を考えると、この街道の要所に築城した隆景公の凄さが分かるだろう。単なる防御拠点だけでなく、交通の良い場所に城を築くことで経済と物流の発展に寄与します。
それは、人や物の動きをコントロールするのに最適ともいえるのではないでしょうか。さすがは頭脳で織田信長や豊臣秀吉といった強敵と渡り合った知将です。冷静に状況を見極めて、毛利家を守り通しただけのことはありますね。
【お城の紹介(その1)】
旅先で訪れたお城を、下記記事で紹介します。
天守台はあるのに天守閣はなかった?

立派な天守台のある三原城ですが、実は天守閣はありませんでした。意外に思われる方も多いのでは。
そもそも天守閣が建てられたのは、織田信長が築いた安土城が始まりです。安土城が完成したのは1579年なので、三原城よりも12年後のことでした。つまり、安土城以前は天守閣を建てるという概念すらありません。
また、江戸時代になると三原城は、広島城の支城という位置づけです。江戸時代では無断に城を建てたり、改修するのはご法度。幕府に警戒されないためにも天守閣を建てるなんてNGですよ。実際、天守閣ではなく、櫓が並べられた記録が残っています。
それに三原城の役割は、海から敵の侵攻を防ぐ重要な軍事拠点。目立つ天守閣を建てるメリットがなかっただろう。一説によると、天守閣はあったと言われていますが、これらの理由により天守閣は建てられなかったという説が有力ですね。

話は変わりますが、隆景広場前には公衆電話があります。良くみると、筐体の上に天守閣の模型を載せているぞ。
後日、この写真を見ていて気が付いたのですが、アングル次第ではこの天守閣を天守台の上に載せる形で撮影できるかも。また今度三原市へ訪れる機会があれば、試してみたいと思います。
三原駅周辺には本丸中門跡や長屋門跡などの遺構が残る

三原駅が造られた後、市街地化が進み、天守台の周囲には住宅が建ち並んでいました。2011年から3年をかけて発掘調査が行なわれ、歴史公園を整備し、三原駅の北側は今の景観に落ち着いています。
この公園は、「紙本著色備後国三原城絵図」が描かれた江戸時代末期の様子をモデルにしたそうですよ。この絵図によれば、西面・北面に西国街道が走り、道に沿って武家屋敷が並んでいたとのこと。

発掘調査により、武家屋敷の長屋門と思われる列石が見つかっています。列石遺構の保護のため、実際に見つかった場所の上を土で保存していました。

また、その隣には長屋門風の東屋が建ち、一休みするのに持って来いですね。発掘調査の説明パネルがあるので、休憩しながら一読してみよう。
それによると、周囲からは江戸時代前期から中期頃の瓦や陶器、古銭も見つかったそうです。

こちらは、西国街道の石列です。この石列の上部は、壊されていたため正確な構造は不明という。柵などの跡は見つかっていません。
ある場所から考えると、西国街道の土砂が水堀へ落ちるのを防いだり、人が水堀へ落ちるのを防ぐ機能があったと思います。

こちらは、復元された後藤門の石垣。どうですか、パッと見には、一段高くて特別感があるかも。東側の石垣が一部復元されていて、西側にも石垣があったそうですよ。そして、これらの石垣の間に門があったと言われています。
また、石垣には「〇」などの刻印があったりするので、ぜひ探してみて下さいね。

一方、三原駅の南側にも本丸の遺跡が残り、駅から約2~3分ほど歩いた場所で本丸中門跡を見つけました。この中門は、本丸と二の丸をつないでいた門ですね。
当時の石垣がそのまま残されています。大小様々な石材が使用されているようで、現代の建物に活用されているのが目に留まりました。石垣のある建物の外観は、高級感があっていいですね。

本丸中門跡の碑石から南へ約60mほど歩くと、臨海一番櫓跡があります。これは、二の丸南西隅にあった建物の跡なんだとか。今は陸地ですが、臨海の名が示す通り、かつてはこれより先は海であったのだろう。この場所に櫓を建て、敵の侵攻がないのか見張っていたかと思うと胸アツです。
その他にも和久原川の河岸に石垣の一部が残されていたり、二の丸の南東側に当たる場所には、船入櫓の石垣が残されています。船入櫓は、船の監視用の二重櫓だったそうですよ。
時間の都合上、これらは見物できなかったので、またの機会に訪れたいと思います。
【お城の紹介(その2)】
旅先で訪れたお城を、下記記事で紹介します。
隆景広場に建つ「小早川隆景」の像

三原駅西口ロータリに近くには隆景広場があり、小早川隆景の坐像があります。
隆景公は、毛利元就の三男として、兄の吉川元春と共に毛利家の中国地方の覇権に貢献した知将です。豊臣政権では、五大老の一人を務めました。
情に厚く、義を通した武将としても有名。特に本能寺の変が起きると、秀吉と速やかに和睦交渉を行い、毛利家を無事存族させました。
和睦交渉後、退却する秀吉に対し、追撃を主張する兄・元春に制約を守る信義の重要性を説いた話は良く知られています。

時代の変化とともに街は変わっていくものなので、隆景公ならば、きっと未来に三原城を含む多くのお城がなくなることは予見できたと思います。しかし、まさか本丸を貫通して鉄道が敷かれ、今の形に三原城が残るとは思わなかっただろう。
どのような形であれ、当時の貴重な遺構が残り続けるのは良いことだと思います。
【お城の紹介(その3)】
旅先で訪れたお城を、下記記事で紹介します。
三原城の基本情報とアクセス
| 住所 | 広島県三原市城町 |
| 電話番号 | 0848-67-5877(うきしろロビー観光案内所) |
| 営業時間 | 6:30~22:00(天守台) |
| 料金 | 無料 |
【アクセス】
- JR三原駅北口から徒歩1分
- 山陽自動車道「三原久井IC」から車で約15分
三原城の駐車場
三原城には、専用駐車場はありません。周辺には有料駐車場が複数あるので、そちらを利用して下さいね。
ちなみに三原駅の南側には、駐車可能台数が多い「クラフトパーキング立体駐車場」があります。
まとめ

「三原には過ぎたるものが3つある」という言葉があり、他藩から羨ましがれた一つが「三原城」でした。
三万石の居城にしては、その規模の大きさに驚いたそうですね。今や三原市のシンボルとして「天守台」が残ります。
また、その周辺には本丸中門跡や長屋門跡などの遺構が残るのでお見逃しなく。さらに隆景広場では、小早川隆景が見守っているので、会いに行って下さいね。
新幹線で三原駅へ辿り着いた後は、ほぼ時間をかけずに行ける国内唯一のレアな城跡へ、ぜひ足を運ぶのをおすすめします。


