
幕末を代表する偉人として人気が高い「坂本龍馬(さかもと りょうま)」。彼の活躍は、日本全国に影響を与えており、その中の一つに福山市・鞆の浦があります。
鞆の浦は古くから潮待ちの港として栄え、今も風情ある港町を色濃く残す魅力あふれる観光名所ですね。そんな鞆の浦では、「いろは丸事件」の舞台として、坂本龍馬が率いる海援隊と紀州藩がバチバチに討論した場所でした。
「いろは丸展示館」では、この「いろは丸事件」について様々な資料を用いて紹介。特に「いろは丸」の沈没状況が分かる大ジオラマは一見の価値あり。さらに、いろは丸の残骸が展示されている。また、坂本龍馬の隠れ部屋を再現済みなのでお見逃しなく。
本記事では、いろは丸事件の舞台でみる坂本龍馬の軌跡を追いながら、いろは丸展示館の魅力を紹介します。
いろは丸展示館とは

いろは丸展示館は、広島県福山市鞆町に位置しており、「大蔵」と呼ばれる江戸時代築の土蔵を利用した博物館です。
江戸時代末期に笠岡市六島(むしま)沖で起きた、いろは丸と明光丸の衝突により沈没した事故、いわゆる「いろは丸事件」について学べます。くわしくは後述しますが、いろは丸沈没地点では数回にわたり潜水調査が行われました。
館内では、いろは丸の引き揚げ物の展示やジオラマを使って沈没状況をくわしく説明。また、坂本龍馬に関するクイズがあったり、龍馬に関する様々なエピソードを紹介しているので、龍馬ファンならばニヤリとする場面が多いだろう。

この蔵は、江戸時代から明治時代初期にかけて鞆の浦の名物「保命酒」の醸造や販売をしていた豪商・中村家が所有し、保命酒づくりの材料を保管する蔵だったそうな。
その後、所有者が太田家になり、倉庫などに使われていましたが、1989年(平成元年)7月から博物館として利用され今に至ります。
2000年(平成12年)には、文化庁により登録有形文化財に指定されました。
【周辺の見どころ】
いろは丸展示館周辺の見どころを、下記記事で紹介します。
「いろは丸事件」は日本最初の海難審判事故

1867年(慶応3年)4月23日の深夜にて、岡山県笠岡市笠岡諸島の六島付近で船の衝突事故が起きました。それが世にいう「いろは丸事件」ですね。
大阪を目指して東へ航行していた伊予大洲藩の船「いろは丸」には、坂本龍馬たち海援隊が乗り込んでいました。船の規模は160トンの蒸気船だったといいます。
一方、長崎を目指して西へ航行していたのは、紀州藩が所有していた船「明光丸」。明光丸は、887トンの大型蒸気船であり、いろは丸より5.5倍のトン数を誇ります。これらの船が衝突したのですから、いろは丸が多大なダメージをくらうことに。
その後、衝突地点から一番近い港町・鞆の浦(鞆津)まで、明光丸がいろは丸をけん引しましたが、努力もむなしく宇治島沖で沈没してしまいました。これが日本で初となる蒸気船海難事故です。


その後、舞台は鞆の浦に移ります。この事件は、当時としては珍しい「万国公法(国際法)」による海難審判へ発展していきました。
龍馬一行は、商家の桝屋清右衛門(ますや せいえもん)宅へ宿泊し、紀州藩は圓福寺へ宿泊すると、双方の宿泊所のほぼ中間にある商家・魚屋萬藏(うおや まんぞう)宅と福禅寺・対潮楼(ふくぜんじ たいちょうろう)にて賠償の談判が行われることに。
4日間にわたり談判を行ないましたが、決着がつきません。事件そのものについて双方に非があったものの、いろは丸側の方が問題が大きかったといいます。
そもそも紀州藩側は、御三家の威光を笠に着て竜馬たち海援隊の言い分を全く聞き入れないというのだから、交渉にならないですね。
だからといって龍馬も立場上絶対に引くことができません。というのは、いろは丸は伊予大洲藩から借りた船なので、賠償金を勝ち取らなければ自腹で弁償する羽目になります。
15日間で500両の契約だったそうなので、死活問題ですよ。当時には海難保険といった制度もないので、絶対に負けられない戦いでした。

決着がつかないまま紀州藩は長崎へ向かって出航すると、そのような背景があるので、龍馬一行は当然後を追いかける。
そして、長崎でも談判が行われ、紀州藩が竜馬たち海援隊へ83,000両の賠償金を支払うことで決着が付きました。龍馬は己が持つ政治力や交渉能力、そして様々な人脈を駆使しながら、最終的には国際法の「万国公法」を持ち出して紀州藩側の過失を追及し、見事勝利を手にした訳ですね。
龍馬としては、胸をなでおろすと同時に、してやったりと思ったことでしょう。実はこの交渉の際、紀州藩に対して本来積んではいないと思われる積載物の損害賠償を求めたといいます。そういうことを知ると、たとえ幕末の英雄でも酷くないですか。(裏の顔があったのかも)
そして、この賠償金が支払われた8日後に、龍馬は京都で暗殺されました。こういう話を聞くと、龍馬暗殺の裏には、紀州藩が関わっているのではないかと、疑いたくなるだろうな。真相は分かりませんが、金銭トラブルというのは、いつの時代も身を亡ぼす要因になり得ます。
「いろは丸」の沈没状況が分かる大ジオラマ

館内に入って最も目を引くのは、海底20mに眠る「いろは丸」の様子を忠実に再現したジオラマです。
再現されたいろは丸の一部は、原寸大70%というのだから、かなり大きいですね。それにブルーライトで照らしているので、海底をイメージしやすくていい感じ。
このジオラマは、高知県の造形作家・岡本驍(たけし)氏が手掛けています。
過去にいろは丸が沈没した地点では、1988年から2004年にわたり、5回も学術的な潜水調査が行われました。
1988年の調査では、鋼材などが引き上げられたそうで、19世紀のヨーロッパ製の蒸気船と判明し、1989年の3次調査で発見された遺物により、いろは丸と断定された次第です。

調査を行なったダイバーたちの様子をリアルに表現しており、当時の調査がいかに大変だったのか想像に難くない。
ダイバーの前に見える大きなチューブは、エアリフトのチューブですよ。エアリフトは簡単にいえば掃除機なようなもの。高圧空気の力で水や海底の土砂を一気に吸い上げて、調査対象物を掘り出す装置ですね。
2004年の第5次調査では、テレビの長寿番組「24時間テレビ 愛は地球を救う」で放映されたので、覚えている人もいるのではないだろうか。
調査結果により、いろは丸の大きさは全長約40m、幅約5.6mということがわかりました。文献では、全長54mとうたっていますが、おそらく船主から突き出ているビームが加算されたものであると推察されています。

甲板に目を向けると、たくさんの石炭が散乱しているぞ。
石炭だけでなく回収物の中には、滑車・ビレイビン・デットアイなどの帆走用具や、鉄製バイブ・油つぼ・開栓具など蒸気機関に関わる部品など色々なものがあります。
また、衝突事件に関する考察をイラストや写真を使ったパネル資料で説明。写真撮影はNGでしたので、ぜひ現地で確認して下さいね。
発掘調査で引き上げられた「いろは丸」の残骸

潜水調査により回収できたものは色々ありますが、談判で龍馬がいろは丸に載せたと主張した400丁の鉄砲や砂糖などの痕跡は発見されていません。
そのため、賠償金を増額するために、龍馬が仕組んだハッタリの可能性が濃厚です。調査結果そのものが完全ではないため、まだ見つかっていない可能性があるので断定はできないですね。
もしハッタリだったとすれば、龍馬の交渉が一枚上手だったという見方ができるかも。個人的には、あまりこのような交渉は好きではないかな。
それでは、回収された「いろは丸」の残骸をダイジェストで紹介します。





その他にも蛇口・銭・すずり・機械類・燃料用石炭などが回収されました。
どれもが当時の状況を今に伝える貴重な品々ですね。
坂本龍馬の隠れ部屋を再現

2階へ上がると、龍馬が隠れていたという枡屋清右衛門宅の一室が再現されています。
その部屋のほぼ中央には、等身大の龍馬の蝋人形がいるのでお見逃しなく。残念ながら部屋の中へは入れませんが、一緒に記念撮影をしてみてはいかがですか。
尚、桝屋清右衛門宅へ足を運べば、実際の隠れ部屋を公開しています。

当時の情勢を考えれば、龍馬が隠れ部屋に潜んでいたとしても不思議ではないですね。徳川御三家の紀州藩と争うというのは、命を狙われる危険性がありました。
昼間は表通りに面する座敷にいたとしても、夜間は隠れ部屋で身を潜めていたと思います。
「対潮楼」は龍馬ひきいる海援隊と紀州藩の交渉場所

鞆の浦を訪れた際には、絶対に足を運びたい観光スポットの一つが「福禅寺・対潮楼」です。
かつて朝鮮通信使のために迎賓館として使用されました。対潮楼では、朝鮮通信使から「日東第一形勝(日本一すばらしい景観)」と絶賛された景観を楽しめる。
座敷に座りながらぜひ窓枠から外を眺めてみよう。そこには、瀬戸内海に浮かぶ仙酔島や弁天島、皇后島といった島々を見渡せます。それに窓枠をフレームに入れて撮影すると、絵画のような1枚が撮れるのがいい感じ。
このような場所で、龍馬ひきいる海援隊と紀州藩が談合を行ないましたが、当時はきっと景色を楽しむ余裕なんて無かっただろうな。もしそうであれば、実にもったないですね。
福禅寺・対潮楼については、下記関連記事でくわしく紹介します。
「いろは丸」を模した「平成いろは丸」で仙酔島へ行こう

いろは丸を再現した「平成いろは丸」が鞆の浦から仙酔島を行き来しています。
仙酔島は「仙人も酔ってしまうほどの美しさ」と謳われているほどの島だ。日本で唯一の5色の岩が同じ場所に存在していて、西日本屈指のパワースポットとして有名です。
平成いろは丸へ乗船して、龍馬を意識しながらつかの間(約5分)の船旅を楽しみましょう。
仙酔島については、下記関連記事でくわしく紹介します。
いろは丸展示館の基本情報とアクセス
住所 | 広島県福山市鞆町鞆843-1 |
電話番号 | 084-982-1681 |
営業時間 | 10:00~17:00(入館は16:30まで) |
休館日 | 月~木曜 年末年始 |
入館料 | 小学生以上:200円 未就学児:無料 30名以上で団体割引あり(一般:150円、小中学生:100円) |
【アクセス】
- JR福山駅南口から鞆鉄バス鞆線に乗って「鞆港」で下車後、徒歩約10分(バスの乗車時間は約30分)
いろは丸展示館の駐車場
いろは丸展示館の駐車場はありません。最寄りの有料駐車場を利用して下さいね。
まとめ

坂本龍馬が鞆の浦へ訪れるキッカケとなったのが「いろは丸事件」でした。
この事件を経て、紀州藩から龍馬に対して多額の賠償金が支払われた8日後に、龍馬が京都で暗殺されたのは偶然でしょうか。この暗殺に関しては、謎が多過ぎて、未だに全貌が分かっていません。
しかし、金銭が絡むトラブルというのは、現代でも深い闇を抱えているものです。龍馬暗殺の裏に紀州藩が絡んでいたのかは分かりませんが、そういう背景を想像しながら「いろは丸展示館」を観光すると、また違った視点が見えてくるでしょう。
「潮待ちの港」として江戸時代に栄えた鞆の浦には、その頃から残る町家や神社仏閣が多数あり、坂本龍馬の痕跡が見受けられます。そんな彼の歩みを追いながら、鞆の浦観光を楽しんで下さいね。