旅の体験談

こんぴら街道を征く、丸亀から琴平まで歴史ある街道を進む

金毘羅街道の風景

香川県丸亀市から琴平町まで続く歴史ある金毘羅街道(こんぴら街道)を歩いてみませんか。

古刹や石燈篭、丁石など江戸時代の文化に触れることができます。

かつて金毘羅参りを行なってきた多くの参拝客が眺めた景色を追体験してみましょう。

本記事では、丸亀から琴平まで続いている金毘羅街道の一つ「丸亀街道」を旅し、先人たちが残した歴史に触れます。

本記事は、以下に該当する人向けです。

  • 金刀比羅宮(こんぴらさん)へ向かう街道で、最も栄えた「丸亀街道」について知りたい
  • 金毘羅街道(こんぴら街道)を歩いてみたい
  • かつての金毘羅参りに興味深々

金毘羅街道(こんぴら街道)とは

「一生に一度は、こんぴらさんへ」と言われた江戸時代中期以降には、金毘羅詣りが盛んに行われました。

当時、自由に旅することができなかった庶民にとって、こんぴらさんを目指す旅は、つかの間の日常から解放される夢であったのです。

そこで、日本各地から金刀比羅宮を結ぶ参詣道を整備し、金毘羅街道(こんぴらかいどう)が誕生した次第です。

こんぴら街道の風景

特に栄えた街道は「高松街道、丸亀街道、多度津街道、阿波街道、伊予・土佐街道」の5つであり、まとめて金毘羅五街道(こんぴらごかいどう)と呼ばれています。

尚、この中で最も栄えたのが丸亀街道です。

参詣道には、燈籠や丁石などが設置され、整備されていきましたが、明治中期以降になると、鉄道や自動車が登場し、交通機関が飛躍的に向上したため、金比羅街道は廃れて行きました。

現代においては、地域の道路整備や区画整理が進み往時の姿を見る事ができなくなりましたが、一部の地域では、往時の道標が残されており、先人が旅した雰囲気を味わえますね。

先人が残した足跡をたどりながら、先人が感じた歴史を振り返ってみませんか。

こんぴら街道を旅し、こんぴらさんを目指す

【スタート】こんぴら街道(丸亀街道)の起点「太助灯籠」

丸亀街道の起点は2つあり、起点同士の距離は余り離れていないので、両方を見て周ると良いでしょう。

一つ目の起点は、JR丸亀駅から北へ約600m程歩けば見えてくる大きな燈籠です。

太助灯籠
太助灯籠

この燈籠は、天保年間に建立された物で、燈籠を建立するために最も多く寄進した塩原太助の名をつけて太助灯籠(たすけとうろう)と呼ばれていますね。

当時、新堀湛甫(しんぼりたんぽ)と言う港が建設されてからは、この太助灯籠から金刀比羅宮へ目指す人が多くなりました。

もう一つの起点は、太助灯籠から西へ約300mほど離れた所にある京極船魂(きょうごくふなたま)神社付近です。

京極船魂神社
京極船魂神社

こんぴら街道丸亀街道)のパンフレットを入手

JR丸亀駅内にある丸亀市観光案内所にパンフレットがありますので、忘れず入手してきましょう。

このパンフレットには、丸亀街道を歩く道順や見るべきポイントを紹介しています。

【周辺の観光スポット

金毘羅街道周辺には、沢山の観光スポットがあります。金毘羅詣りと合わせて訪れてみては如何でしょうか。周辺の観光スポットを下記記事で紹介します。

金刀比羅宮の一の鳥居を目指す

太助灯籠からスタートして、みなと公園へ辿り着くと、この公園の外側に桜をバックに佇む石燈籠を発見しました。

桜と石燈籠

かつて中府三軒家にあった石燈籠ですが、平成元年にみなと公園へ移され今に至ります。

中府三軒家には3基の石燈籠があったそうで、その内2基がこの公園にあるとか。(残り1基は善通寺市の金倉寺へ移送)

この公園を南下し、JR予讃線のガード下をくぐり抜け、通町商店街から続く、富屋町商店街へ入りましょう。

商店街の風景

とあるお店のガレージには、さきほど訪れた太助灯籠の絵が描かれており、印象に残っています。

石燈籠の絵

富屋町商店街の通りには、妙法寺がありますのでお参りして行きませんか。

妙法寺
妙法寺の本堂

妙法寺は、俳人として知られている与謝蕪村(よさぶそん)が讃岐国の俳諧仲間を訪ねた際、滞在していた場所です。

そのため、別名「蕪村寺」とも呼ばれています。

こちらは、周辺の路面で見つけた丸亀街道のマーク。

丸亀街道のマーク

このマークを見つけた時には「このマークを目印にすれば良いのか」と思っていましたが、実際はほとんどありませんでした。

非常に分かりやすいので、出来ればこのマークを増やして欲しいですね。

妙法寺から西へ約300m離れたところにある寿覚院山門前で、立派な石燈籠を発見。その隣には説明板も用意されています。

石燈籠

尚、南条町へ入ると、路面の一部がオレンジ色(自然石舗装)になっているところがあり、この自然石舗装がこんぴらへの道標となっていますね。

自然石舗装

先ほど見つけた石燈籠から30m先で、今度はこんぴらさんへ向かう道標を発見。

道標

道標には「本宮百五十八丁」と刻まれていました。

一丁は約109mなので、本宮まで残り約17kmですね。

尚、道標の各面には、様々な文字が刻まれていますので確認してみましょう。

例えば「すぐこんひら」と刻まれていましたが、これは「直ぐ 金毘羅」と解し「金毘羅宮へ向かう人は、この交差を真っ直ぐ進め」と読み取れます。

パンフレットの道順通りに進むと、南条町で再び石燈籠を発見しました。

南条町の石燈籠

この石燈籠は、1764年(明治元年)に農人町と南条町の講中によって建立された常夜灯で、当時の場所に現存しています。

南条町の石燈籠があった場所から南下すると、鶏鳴軒(けいめいけん)と言う散髪屋が1914年(大正3年)に建てた道標がありました。

こんぴら道標

この道標は、こんぴら道標の中で最も新しく、「西 ぜんつうじことひら道」「北 汽車海岸へんろ道」「南 このさきだいせん阿波街道」と刻まれています。

南条町を抜け、中府町へ入ると再び石燈籠を発見しました。

百四十丁石燈籠

この石燈籠は、1808年(文化5年)に建立されており、「百四十丁」「金毘羅大権現」と刻まれた丁石を兼ねた燈籠です。

元々は普通の道標でしたが、後に火袋を乗せて灯篭道標になった経緯があります。

また、その隣には四国八十八カ所巡礼の道標もありました。

道中には古い建屋があったりして、風情を感じますね。

古い建屋

周りを見渡しながら先へ進みましょう。

中府の大鳥居へ到着

パンフレットの道順通りに進むと、中府(なかぶ)の大鳥居へ辿り着きました。

中府の大鳥居

この鳥居は、金刀比羅宮の一の鳥居です。

花崗岩製の明神造りであり、高さは22尺(約6.7m)、柱の間は15尺(約4.5m)もあります。

1871年(明治4年)に大阪府堺、山口県、青森県及び地元丸亀の人々によって建立されました。

1943(昭和18年)に発生した地震で崩れてしまいましたが、金刀比羅宮が修復したそうです。

また、この鳥居の近くには、百五十丁を示す起点石がありました。

起点石

この起点石は、丸亀湊(川口)から移されたとも言われており、「従是金毘羅町口江百五拾丁」と刻まれています。

中府の大鳥居までは、比較的見るべきポイントが密集していましたが、この鳥居から先は散らばっていますね。

中府の大鳥居をくぐり抜け、先へ進んでいると「平成の丁石」がありました。

平成の丁石(五丁)

平成の丁石は、丸亀街道に点在する燈籠や茶堂跡など歴史遺産の調査・整備を目的に官民で組織する「こんぴらさんへの道しるべ協議会」により建立され、丸亀街道沿いに全部で5つあります。

その内の一つが、中府口を起点に作られた五丁目の起点石ですね。

昔からある丁石と共に一緒に探してみましょう。

石燈籠が続く道筋

比較的交通量の多い道を真っ直ぐ進みます。かつて多くの参拝客が通った道ですね。

交通量の多い道

道路の分岐点に「二十丁」と刻まれた「平成の丁石」を発見。

平成の丁石(二十丁)

その奥には、柞原(くはら)の常夜燈籠が見て取れます。

柞原の常夜燈籠

この燈籠は、1863年(文久3年)に金毘羅大権現へ奉献のため建てられました。

尚、台座には「右こんひら道」と刻まれているため、道標も兼ねているようです。

このように石燈籠や道標、丁石などを探し回っていると、何だか宝探しゲームの感覚になりますね。(笑)

特に謎とかはありませんので、お気軽に楽しめます。

柞原の常夜燈籠を後にし、しばらく道なりに真っ直ぐ進みましょう。

道路

今回の旅は、桜シーズンに行ったため、至るどころで桜を見かけテンションが上がりました。

桜の木

道中で見つけた大きな池である田村池に寄り道し、池周辺の景色を楽しみます。

池の景色
田村池

また、遠くには讃岐富士こと飯野山も見えており、更にテンションが上がりました。(笑)

遠くに見える飯野山

田村池を過ぎて、しばらくすると再び石燈籠を目撃。

自然石燈籠

この燈籠は、今まで見てきた燈籠とは雰囲気が異なりますね。

それもそのはず、この燈籠は、丸亀から歩いてきて最初に出会う自然石の燈籠です。

1860年(万延元年)に村中安全を祈って建てられました。

先へ進むと、高松自動車道が見えてきましたので、この道路の下をくぐり抜けます。

自動車道が見える道路

くぐり抜けた先の分岐点で、一理屋の燈籠と丁石を見つけました。

一理屋の燈籠と丁石

この燈籠は、1874年(明治7年)に地元の人々によって建立され、六角の中台には十二支で方位が示されています。

また、竿には「東 高松」「西いよ こんそうじ せんつうじ」「南 金毘羅」「北 丸亀」と刻まれていました。

隣りにあった丁石は、以前土に埋もれていたのですが、平成になって復活したそうです。

尚、表面には「是より鳥居まで百丁」と刻まれていますね。

しばらくすると、郡家(ぐんげ)へ入り、神野神社へ辿り着きました。

神野神社
神野神社

その昔、丸亀の殿様が郡家の茶堂へ立ち寄って、神野神社の神主がお出迎えしたそうです。

金毘羅街道には、四国八十八カ所の参詣のような「お接待」とよく似た接待があったと言われています。

街道の郡家(ぐんげ)、与北(よぎた)、公文(くもん)に休憩所を設置しており、お茶などの接待が行われていました。

パンフレットを確認すると、ここから池巡りコースへ分岐することが分かりましたが、今回の旅では、池巡りコースは行きません。

しかし、その道中には両宮の石燈籠がありますので、立ち寄ってみましょう。

こんぴら街道の風景
両宮の石燈籠

この石燈籠は、1854年(嘉永7年)に地元の人々が八幡さんと金毘羅さんに奉献した物だそうです。

この石燈籠越しに讃岐富士(飯野山)が見えて、見事な景色を堪能できます。

尚、両宮の石燈籠を見学した後は、池巡りコースへ行かないので、来た道を引き返し、神野神社へ戻りました。

発見がかなり困難「賽祷碑」

パンフレットを見てみると、神野神社周辺には、郡家の茶堂が合ったとされる立札と賽祷碑(さいとうひ)があるはずなのですが、いくら探しても見つかりません。

神野神社前

神野神社の鳥居前にあった立札が、郡家の茶堂の元立て札なのではないかと穿った考えがよぎり、スルーしようと思い始めていたところ、地元の人が通りかかってきましたので、賽祷碑などについて尋ねていました。

すると、意外なところにあることがわかり、これは初見で見つけるのは困難だと思いますね。

こちらが郡家の茶堂が合ったことを表す立札と賽祷碑です。

賽祷碑

賽祷碑は、肥後の美作九平治一族が、八幡様(神野神社)と金毘羅様の神恩に報いるため、雨傘千本を献じて感謝の意を表し、国家安全、商運吉祥を祈ることを記した物だそうです。

この賽祷碑は、こちらの自転車屋の車庫の中にありましたので、これは見つけれないでしょう。

自転車屋

出来れば道路の沿岸に、賽祷碑のある場所を示す案内板を設置してもらいたいですね。

与北茶堂跡へ向かおう

丸亀街道の起点である太助灯籠から、既に約6km近く進んだでしょうか、道の沿岸に「五十丁石」を発見しました。

五十丁石

五十丁と言えば、金毘羅街道の約3分の1の道程になりますが、本来ならばこの位置にあるべき物ではありません。

この五十丁石は、道路工事の度に移されたそうで、元の位置は不明だそうです。

周辺の景色は、丸亀市の市街地と異なり、すっかり田舎の景色にとって代わり、のんびりした雰囲気を感じますね。

そんな雰囲気の中で見つけたのが、こちらの角下組(すみしもくみ)石燈籠です。

角下組石燈籠

この燈籠は、1795年(寛政7年)9月に建立されました。

尚、燈籠のそばには「七十丁」の丁石も建っていますね。

角下組石燈籠から少し進むと、黒住教の教会所がありました。

黒住教の教会所

ここが金毘羅街道(丸亀街道)のほぼ中央に当たり、最も大きな茶堂があった与北(よぎた)の茶堂跡です。

東西4間、南北5間、内部は土間で十一面観音像を祀っていました。(現在は、丸亀市の宝光寺に安置されています。)

石燈籠

こちらにあった石燈籠は、金毘羅街道の中で最大の物であり、火袋は6面、中台も6角です。

また、1辺に1文字ずつ「金毘羅大権現」と彫られています。

1946年(昭和21年)に発生した南海地震で倒壊しましたが、1967年(昭和42年)に復元されました。

富隈神社を目指そう

与北茶堂跡を後にして、少し進むと角上組(すみかみくみ)石燈籠を発見。

角上組石燈籠

この燈籠は、先ほど見つけた角下組石燈籠と一対になる物です。

同じ1795年(寛政7年)9月に建立されました。

こちらは、道中見つけた布袋様。まるで躍っているように見えませんか。(笑)

躍る布袋様

旅を続けていると、興味深い物や面白い物など新しい発見ができますので、辞められませんね。

与北町のはずれでは、道が二つに分かれており、その分岐点には山下の道標がありました。

山下の道標

この道標には、「右 金刀比羅道 左 大川剣道」「すぐ丸亀」と刻まれており、丸亀の人々が建てた物です。

その隣には「九十丁」と刻まれた平成の丁石もありました。

道の分岐を間違えると、全く違う方向へ行ってしまうため、パンフレットの道順を良く確かめて進みましょう。

のうまん町公文へ入ると、桜の木の下に石燈籠と3つに並んで建っている石塔を発見。

桜と石塔

見るからに意味深です。一体どんな謂れがあるのでしょうか。気になりますね。

石塔

しばらくすると、公文の茶堂跡がある付近に到着しました。

パンフレットを見てみると、案内板があるとなっているのですが、辺りを探しても見つかりません。

「また、分かりずらい所にあるのでは」なんて考えていると、犬の散歩中であった地元の人と出会ったので公文の茶堂跡について話を聞いてみました。

すると、こちらの「山上うどん」の裏側の畑にかつて、公文の茶堂跡があったことがわかったのです。

うどん屋

尚、案内板については、このうどん屋の正面に飾られていることを教えて頂きました。

こちらがその案内板です。こんな所にあるとは、意外と盲点ですね。

金毘羅街道の案内板

やはり、良く分からない場合は地元の人に聞くのが一番です。

四国はお遍路文化が昔からあるため、旅人にとても親切に感じますね。(嬉)

山裾を進んでいると、富隈神社(とみくまじんじゃ)へ辿り着きました。

富隈神社

富隈神社の境内には、1914年(大正3年)の神社統合の際、付近の燈籠や丁石6本が移設された経緯があります。

丁石
百三丁石

本殿前にある燈籠は、神社の北東の金毘羅街道と馬方道の分かれ道に建っていたそうです。

石燈籠

また、移設にあたって世話人が近江まで出向き奉納者に了解を取ったと言われています。

折角、富隈神社へ訪れたので参拝していきましょう。

富隈神社の拝殿

ゴール間近、横瀬の石鳥居へ赴く

周辺に田んぼが広がる道を進んでいると、穏やかな気持ちになってきますね。

田んぼが広がる道

これは日本人のDNAのなせる業(わざ)でしょうか。(笑)

のんびり先へ進んでいると、見晴らしの良い場所で、「百十丁」と刻まれた平成の丁石を発見しました。

平成の丁石(百十丁)

丸亀湊から金刀比羅宮まで150丁なので、残り40丁(約3km)です。

よいよ旅の終わりを感じてきました。

次に出会ったのが、用水路近くにあった竿に「金」の一文字があるだけの燈籠です。

自然石の燈籠

火袋以外は自然石のままですね。

この燈籠の前には、百二十四丁石もありました。

尚、この丁石は、もともとこの地にあった物だそうです。

琴平町苗田(のうだ)へ入ると、民家前の道路の脇に白い案内板を見つけました。

代官所跡

江戸時代には、この辺りは苗田村であり、周辺の榎井(えない)村、五条村、五毛村を含めて幕府の直轄である天領だったそうです。

そのため、ここ苗田村には代官所が置かれました。

初代の代官には、守屋与三兵衛がその職に当たったそうです。

尚、天領からあがる年貢は、満濃池(まんのういけ)の改修や用水路の整備に使われていたと案内板に記載されていました。

琴平町へ入った事で「ゴールまで後わずかだな」と考えていると、かつて立派な藤棚があったとされる現場へ辿り着きます。

藤棚跡

ここは奈良出身の放浪画家「大原東野」の住居跡であり、大原が丹精込めて作った藤棚は名所になっていたそうです。

その藤棚は1897年(明治30年)頃に金刀比羅宮北神苑へ移植されました。

また、この藤棚跡の隣りには、百三十一丁石もあります。

百三十一丁石

この藤棚跡から少しだけ進むと、立派に育っている巨木を発見。

立派な木

その隣には、真新しい神社がありますので、参拝していきましょう。

若宮神社

始めこの神社は石井八幡宮と勘違いしたのですが、後から「若宮神社」であったことが分かりました。

この神社の手前にこのような石碑があれば、誰だって間違えるでしょう。

石井八幡宮の石碑

尚、石井八幡宮は、若宮神社の前の道を真っ直ぐ行った所にあります。

こちらのような穏やかな景色を眺めながら旅を続けるのは、気持ちが良いですね。

田舎の穏やかな景色

しばらくすると、横瀬(よこせ)の石鳥居へ辿り着きました。ここまで来ればもうすぐゴールです。

横瀬の石鳥居

この鳥居の扁額には、金刀比羅宮のマークである「丸の中に金の字」が掲げられており、柱には備前児島や野崎武吉郎などの名前が刻まれていました。

野崎武吉郎と言えば、児島の豪農、野崎家の方で塩田王と呼ばれており、貴族院議員も務めた人として知られています。

この鳥居の柱近くには、「百三十五丁」と刻まれた平成の丁石を見つけました。

平成の丁石(百三十五丁)

ここまで来れば、ゴールの金刀比羅宮まで残り15丁(約1.6km)ですね。

迫力満点!高燈籠へ立ち寄ろう

ゴールの金刀比羅宮へ行く前に立ち寄っておきたところが「高燈籠(たかとうろう)」です。

金刀比羅宮へ向かう途中にありますので、必ず立ち寄ることをお勧めします。

踏切が見える道路

踏切を越えた道の先には、地蔵堂と横瀬の石燈籠を目撃しました。

地蔵堂

この地蔵堂は、1854年(嘉永7年)に横瀬と金毘羅茶屋の人々が寄進したと言われています。

また、石燈籠の方は、1798年(寛政10年)に備中国酒津村の梶谷伊平治が願主となり建立したそうです。

地蔵堂を後にし、道なりに進んでいれば高燈籠が見えてきます。

高灯籠

この高燈籠は、1860年(万延元年)に5年がかりで完成しました。

高さは27mもあるため、当時金毘羅街道を歩いてやって来る参拝客にとって、恰好の目印になっていたそうです。

江戸時代は、今と違って周りに高い建物がほとんどなかったと思われるので、かなり遠くから目撃できていたのではないでしょうか。

また、高燈籠のあった敷地内には、金刀比羅宮側の起点石があり、表面には「百五十拾丁」と刻まれていました。

起点石(百五十丁)

更に奥の方には、先ほど紹介した藤棚跡から移設した藤棚が見て取れます。

藤棚

高燈籠の周辺には、JR琴平駅や琴電の琴平駅がありますね。

そのため、金刀比羅宮へ参拝した後で宿泊しないのならば、電車で帰路に付くと良いでしょう。

【ゴール】こんぴらさんの表参道入口

金倉川に架かる橋を渡ると、金刀比羅宮の表参道入口まで残り400mもありません。

川に架かる橋

あっという間に表参道入口へ到着しました。

金刀比羅宮の表参道入口

この表参道入口で金毘羅街道(丸亀街道)は終了ですが、ここから金刀比羅宮の本宮へ向けて更に歩いて行かなければなりません。

この表参道から本宮までには、785段の長い階段が続きます。

また、奥宮まで上るとなると1,368段もあり、かなり大変です。

丸亀街道を歩き疲れたら、表参道周辺には、休憩できるお店が沢山ありますので休憩し英気を養って下さい。

そして、十分に休息が取れたら本宮へ向けて再び歩き始めましょう。

まとめ

「一生に一度は、こんぴらさんへ」と謡われ、金毘羅詣りが盛んだったのは江戸時代中期以降です。

かつては日本全国から丸亀の地へ訪れ、多くの参拝客が金毘羅街道(丸亀街道)を歩きました。

当時は、自由に旅することができなかった庶民にとって金毘羅詣りは夢だったのです。

今は交通機関が発達し、手軽に金刀比羅宮まで行けるようになりましたが、先人たちが残した足跡は街道の至るどころに残っています。

丸亀街道に残る石燈籠や丁石、道標などは、当時の参拝客が金刀比羅宮へ目指すため必要不可欠な物です。

当時の人々の信仰心がひそかに息づいている丸亀街道を歩き、先人たちがつかの間の日常から解放された夢の旅をたどってみませんか。

【サイクリストの管理人からの一言】

スタート地点付近にあるJR丸亀駅の近くには、レンタサイクルがありますので、丸亀街道をサイクリングするのも有りですね。交通ルールをしっかり守り楽しいサイクリングにしましょう。下記記事では、自転車のルールなどについて紹介します。

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