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絶景・観光スポット紹介

岡山の赤磐市にある七重の石塔がそびえ立つ備前国分寺の跡地を訪ねて

備前国分寺跡の看板

諸行無常は世の常です。

奈良時代に聖武天皇により、仏教による国家鎮護を実現するため、全国に建てられた国分寺。かつて備前国と呼ばれていた場所には、備前国分寺が創建されていました。

当時は、文化や教育、福祉などの拠点として多いに栄えていたそうですそして時は流れて、現在では寺院の面影が全くありません。

目の前には広大な草原が広がっているだけです。その地を訪れて、何を感じるのでしょうか。

本記事では、備前国分寺の跡地について紹介します。

諸行無常を感じる備前国分寺跡に触れてみる

眼前に広がる草原

自転車で山陽自動車道の近くを走行していた時、目の前に広がる草原にとても興味が湧いてきました。

その草原の中には、「史跡 備前国分寺跡」を書かれた看板が立っていたのです。

それを見て、この地について知りたくなり、自然に草原の中へ向かい始めました。

その草原の中には、至る所に立札が立てて有り、いろいろと説明文が書かれています。

例えば「南門」と書かれた立札がありました。

かつて、この辺りには備前国分寺の南門があったそうです。

今は草原が広がっていますが、この南門は正面が17.23m、奥行き6.53mで中央3間が扉となる門があったと考えられています。

結構大きな門がそびえ立っていた事が想像できますね。

その他には、「中門」の立札が立っていました。

中門は、回廊の正面中央に開く門で、正面18.12m、奥行き7.13mで中央3間が扉となる門のようでした。

このように、今は草原となっている場所には、かつて建造物があった場所に立札が立てられています。

この草原の中心地付近には、初めに見えた「史跡 備前国分寺跡」の看板がありました。

その近くには、この備前国分寺跡の説明が書かれた案内板があります。

【草原・芝生広場あれこれ】

備前国分寺の跡地のように一面が草原や芝生が広がり、周りにはほとんど何もないスポットは、開放的でとても気持ちが良いですね。私が旅先で立ち寄ったそんなスポットを下記記事で紹介します。

なぜ、国分寺が建立されたのか

時は741年(天平13年)、聖武天皇が納める時代、全国60余国に対して寺院の建立を促す号が発せられます。

当時は朝廷と貴族による酷い権力争いが繰り広げられていました。

また、度重なる災害や疫病により、多くの民衆が苦しい生活を余儀なくされていたのです。

そこで、聖武天皇はある考えに思いつきます。

それこそが、国分寺の建立だったのです。

仏教の力を借りて、この受難を鎮め国を護ろうとしました。

そこには、おそらく国を護る事に対する責任感や、民衆を思う慈しみの心があったのではないかと思います。

備前国分寺の広さと建物の配置を知る

この寺院の境内の広さは、南北約190m、東西約175mの広大な広さであり、その中に主要な建物であった講堂や金堂、中門、南門などが一直線に並んで配置され、南東には塔が建てられていたのです。

中門と講堂は回廊でつながっていますね。

回廊は屋根付いた通路であり、それぞれ方位ごとに北面回廊、南面回廊、東面回廊、西面回廊に分かれていました。

この中で北面回廊についてご紹介します。

この回廊は、講堂を挟んで東西に長さ68.6m、幅5.4mありました。

発掘調査により、梁行の楚石が3個並んでいたため、中央に壁があり、その両側が通路になっていたと考えられています。

繁栄から廃絶へ

当時、国分寺は「国の華」と呼ばれ、文化の拠点としてだけはでなく、福祉や教育の拠点としても賑わっていました。

どれほどの賑わいであったかについては、想像するしかありませんが、文化や教育の拠点になった言う事は、多くの人が集まってきたのでしょう。

人が集まれば、経済などが活性化され、多くの商店や宿屋などが整備されていたのではないでしょうか。

繰り返し整備される事で、また多くの人が集まり経済が活性化して、賑やかに繁栄していきますね。

しかし、繁栄はいつまでも続くことはありませんでした。

奈良時代に産まれた備前国分寺ですが、平安時代に入った後でも改修を続けながら存続していきました。

平安時代の末期には、講堂と北面回廊が焼けて無くなったとされています。

この頃には既に、金堂や塔は利用されていなかったそうです。

規模を小さくしながらも存続してきた備前国分寺でしたが、鎌倉時代に入ると講堂は立て直されますが、時代の流れなのか16世紀後半頃には、使われなくなりました。

焼き討ちにあったとも言われています。

備前国分寺が廃絶になった後には、石造七重層塔と祠が残り、その当時の面影を残しています。

【古い町並みの紹介】

旅を続けていると江戸時代など古い時代の町並みが残されているスポットへ立ち寄ったりします。そこは、昔繁栄を極めていたところもあれば、そうでないところもありますね。私が訪れたそのようなスポットについて下記記事で紹介します。

発掘調査について

1974年に岡山県により発掘調査を行い国分寺跡の存在が確認されました。

この発掘調査では、堂塔の礎石や当時の瓦などが発見されたのです。

その後、2003年度には、赤磐市による発掘調査が行われ、軒丸瓦や軒平瓦などの遺物が見つかりました。

出土品については、赤磐市山陽郷土資料館にて展示されています。

まだ調査されていない所に関しては、今後の動きに期待したいですね。

【資料館・博物館の紹介】

発掘された物は、資料館や博物館へ展示されるが多いですね。そのような展示品を見学するのも楽しい時間の使い方です。私が旅の道中で訪ねた資料館や博物館について下記記事で紹介します。

講堂跡を見学しよう

講堂は、お坊さんが日常の行事を行い、経典が講義される場所ですね。

今は発掘調査を得て、整備された跡地を見学する事ができます。

階段を上ると講堂の大きさを良く感じる事ができますね。

奈良時代の講堂は、正面に33m、奥行き16mあったと考えられていて、東西に37.7m、南北20.8mの長方形の基礎の上に建てられていました。

近くにあった講堂の説明板には、講堂を発掘した時の写真が載っていました。勉強になります。

【神社仏閣の紹介】

私は旅の道中に神社仏閣へ参拝後、御朱印を頂くことが多いですね。私が訪れた神社や寺院について下記記事でお伝えします。

塔の跡地へ向かおう

かつて塔がそびえ立っていた場所には、今は花崗岩で作られた塔がそびえ立っていました。

この塔は「石造七重層塔」と呼ばれ、鎌倉時代に入り建てられたとされています。

かつて塔が建てらえていた位置を特定するための貴重な物です。

七重石塔
石造七重層塔

この石塔は、赤磐市指定有形文化財に指定されています。

国分寺を象徴する塔は七重塔であり、その中には鎮護国家を説いた経典が納られていたとされています。

塔の大きさは、一辺が8.91m、高さ60mほどあったとされ、一辺が17.82mの正方形の基礎の上に建てられていたそうです。

発掘調査の後で基礎が復元され今に至ります。

近くにあった塔の説明板には、塔を発掘した時の写真が載っていました。

その他には、塔の復元予想図が描かれています。

この予想図と60mの大きさを加味して想像すると、まさに仰ぎ見る巨塔であり、インパクトが凄いですね。

当時の人々はこの遠くから見える巨塔を見て、心の拠り所にしていたのではないでしょうか。

草原を見ながら思いを馳せる

眼前には見渡す限りの草原が広がります。

かつては、この辺り一帯には備前国分寺があり、お坊さんや町の人々で賑わっていたのですが、今は何もありません。

奥の方には「山陽児童館」が見えます。

小さな子供たちが、この草原で走り回り遊んでいる姿を想像すると、優しい気持ちになりますね。

草原の中には社が建っており、この地を護っているのでしょう。

また、草原を少し離れた所には、国分寺八幡宮がありました。

この世は栄枯盛衰です。

再び時代が変わり、この地が「国の華」と呼ばれる日がくるかもしれません。

備前国分寺跡の基本情報とアクセス

住所岡山県赤磐市馬屋
電話番号086-955-0710(赤磐市山陽郷土資料館)

【アクセス】

  • JR瀬戸駅からタクシーで約15分
  • JR岡山駅から山陽団地行きバスもしくはネオポリス西9丁目(山陽団地・西経由)行きバスで約35分
  • 山陽自動車道山陽ICから約10分

備前国分寺跡の駐車場

周辺にある「稚媛の里」の駐車場を利用して下さい。

普通車は25台、大型バスは1台駐車できます。

「稚媛の里」から備前国分寺跡までの距離は、約500mぐらいありますので、徒歩で約6分ほどかかります。

まとめ

備前国分寺の跡地は今は草原が広がっていますが、発掘調査によりその痕跡が見つかり確実にその存在が確認されています。

今後の調査次第では、新しい発見があるかも知れないため、アンテナを高くして情報の取得に励みたいです。

この草原の地で、かつての隆盛に思いを馳せながら散策するのは興味深い事でした。

今を生きる私たちは、当時確かにあった備前国分寺の記録を後世にしっかりと残していきましょう。

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